《犬は三日の恩を三年忘れないモノです》
たった一枚の紙切れがある。そこには、たった一つの場所が記されていた。
黒くて、長い髪。約束をしてから、願掛けでずっと伸ばしていた。彼女の傍らには、いつも優しい味方が居た。
「待ちなさい」
彼女は小さく呟く。いや、それは命令なのだが、あまりにも声が弱い。
狼はまだ少ないが、猪はかなり見かけた。薄暗いのは夜間を示すのではなく、深い森と険しい山を示すものだ。
幼くして、彼女は頑なに拒んだ。
「ま、待って」
優しい味方は、二つ目の命令で足を止めた。
見渡せば、異様に静かだと思えるだろう。生き物の気配は、まるでしない。どれほど歩いたのか、かなり高い場所まで登ったらしい。足腰は他人のモノになってしまったし、動植物が極端に減ってきた。
ぶるりと彼女は肩を振るわせる。
汗が滲む額に、とても冷たい風を感じた。
「ここまで来れば…」
呟くように、疑問を浮かばせる。
優しい味方は何も言わず、ただじっと彼女を見詰めた。
「そうね」
揺れた瞳から察すると、まだ<場所>には辿り着けていないらしい。
山道の先を見定めようと、目を凝らす。何もない。空まで続いてるようだ。
不安という名の暗雲が彼女を曇らせる。でも──
「行こう」
呟く。誰にでもない、自分に。
少し休息したからだろうか、思いの他、足腰はスムーズに動いてくれた。
彼女が進むと、また唯一の味方も足を進める。その距離は一定で、道案内をしてくれているようだ。何も言わない、何も話さないが、味方だと思える。
いつからだろう?
どこからだろう?
壊れ始めたのは──
<家>はとても大きかった。一つの断り以外、他の<家>とも変わらないと思っていた。
『野獣への愛情を禁ずる』
これが秘密の断りであり、笑ってしまうような伝統だった。
「ねえ、何をしているの?」
幼い声が響く。囁くというよりは、呟くというニュアンスが近い。静かな場所だったからこそ、彼女の声は風音のような響きを持っていた。
流石にスーツではないにしろ、かなりキッチリとした装いの男がゆっくりと振り向いた。
「昔のことを思い出していたのですよ」
「昔?…あ!」
両手をパチンと合わせ、満面の笑みを浮かべる。
まだ幼いが、十分に美を感じさせられる。
「あの恋人でしょー?」
聞いたことがある。<家>で働く前の話だったと思う。
何かの病気だったか、何かの──
「恋人なんて滅相もない」
語尾が強まる。それでも、男はニコヤカに笑った。
「片思いだっけ?」
声が弾んだ。
「ええ、そう思って貰って結構ですよ」
「ふぅん」
ニヤニヤと、彼女は笑った。
恥ずかしいのか、少し彼は視線を外す。身の丈は彼女を軽く越えるが、しゃがみ込んで水仙の花を見ていたから、視線が交じっていた。
「綺麗な花ね」
<家>で雇っている若い男。それ以外、あまり彼を知らない。しかし、懐かしい雰囲気がする。この水仙だって、懐かしい。彼と水仙、とてもお似合いだ。
「貴方に足りないのはこの花だ」
「え?」
にこりと笑って、「いえ、何でもありません」と彼は言った。
彼が来て、二ヶ月が過ぎた。
たまに水仙の花を見ると、彼が居る。
初めて、彼に出会ったのココだったなァと思った。
大きな<家>であり、広大な屋敷を住まいとしている。だからこそ、楽しい遊びも思い付けるのだが、逆に言えば<家>以外の世界を知らなかった。
毎日に稽古があり、あまり両親とは会わず、稽古事がない時は自室で読書をしていた。特に何を言われた訳ではないが、幼き日から家人の様子を見るにつれ、当たり前の生活だと思っていた。植え付けられた認識だと言うのだろうか、今はそれを知っている──
優しい味方は、少し先で彼女を待っている。
それに気付くと、無理やり彼女はペースを上げた。
息が切れ、苦しい。しかし、喜びはそれを拭った。
「ごめん」
「謝ることは何もありませんよ」
優しい味方は、やっぱり優しい。
話したいことがあると悟ったのか、優しい味方は距離を保つことなく、足を止めていた。
相変わらず、冷たい風が吹く。加えて、息苦しくなってきてるようだ。人間は歩かないのだろう、腐葉土が少し潰れてるだけの道になっていた。
麓では咲いていた花も、ここでは咲かない。
「でも、私の為に…」
彼女には、行かねばならない<事情>があった。
<事情>は彼女にだけ適応される。彼の<事情>とは、また異なるものであったとしても。
「いえ、私も貴女の行方を見届ける義務があります」
ニュアンスが一瞬飲み込めず、息を忘れていた。
「あふ」
気付いて、無理やり始めた呼吸が喉を逆に詰まらせる。
にこりと優しい味方は笑い、彼女の背中を擦ってやった。
「お気を付けを」
とても暖かい手だ。動物の毛皮に近い、温もりがある。
「ありがと」
彼女は照れたように笑う。
ある日、彼女は彼に言った。
「あなたが好きなの」
彼は優しく答える。私では役不足だと。
「そんなことないっ!」
あまり声を張り上げることはない彼女だったが、その時は<家>に響き渡るような声を出していた。という訳で、あっさりと秘密の恋事情は家人の知ることとなった。
それから、数日は誰も何も変化はなかった。
自室の掃除係は、丁寧に会釈をする。白くて綺麗なままの障子戸が開き、雑巾と叩き、それにバケツを持った掃除係が入ってきた。
「お嬢様、当主様がお話があると申しておりました」
部屋の片隅に道具を置くと、徐に彼女は告げた。
間もなくして、彼女は<家>から逃げることとなった。
宛てもないまま、旅路は続くものだと、彼女は思っていた。
優しい味方は、空に続く道を先に歩く。足場を確かめ、彼女に注意を促しながら。
山を撫でるような細道。人の手は殆ど施してないようだ。
また、同じ感想を浮かべた。酷く苦しくなってくる。体温も上がってるようだ。
「疲れたわ」
同じ感想。浮かべるだけだった感想だったが、遂に言葉となった。
密かな響きを聞き分けて、優しい味方は足を止めた。
「もうすぐです。あの<場所>です」
「もうすぐ?」
にこりといつもの微笑みが返ってくる。
舞踏の稽古で足を挫いた時も、全然上達しないお茶の話も、よく聞いてくれた。よく見せてくれた笑顔だ。暖かいと思える。疲労がすーっと消えてくようだった。
風の合間から覗いた水仙が見えた。
貴女にはこの花が足りない。
「え?」
「…着……たよ」
ざざーっと違う種類の風が吹き付けた。
頬が痛む。乾燥と冷えで、かなり荒れてしまっていた。
見上げた先には、階段があった。何故か、この一角だけは手入れが行き届いている。階段を視線で登るように見上げていく。木々の合間を縫って、それはまだ高い所まで続いてるようだ。
「着いたの?」
「ええ、何かお考えでしたか?」
「ううん。何でもない」
今度は獣道に近い山道ではなく、御社の階段を登っていく。
足場だけはちゃんとした階段なのだが、道の所々に木々の枝が飛び出している。草を払い、枝を押さえ、優しい味方は彼女を案内していく。
あの紙切れに載っていた<場所>だ。
ざざーっとまた音が耳に届く。少し大きく聞こえた。それは、洞穴から風が吹いているのだ。
洞穴は封鎖されていた。
優しい味方は、にこりとも笑わず、彼女を見た。
視線が痛い。ここで初めて、少し恐怖を覚えた。
家人との恋慕がバレたあの日から、世界はとても早く廻ってるようだ。朝は小鳥たちの歌声に酔い、昼は舞踏やお茶の稽古、夜は清潔で落ち着く静けさに囲まれる。そんな毎日は、突如変わり始めた。
好きだと言ったら、彼は笑ってくれた。
優しい味方、そう思っていた。
「伏姫…<私>は、人間になった」
低く、耳覚えのない声。
そこに居たのは、犬──野獣だった。
「だが、時は残酷だ」
「あ、なた…」
「とても惨い。あの時は、<私>を愛していたが、今は<人間>だ…」
ごくりと息を飲む。
野獣はとても大きな牙を見せていた。
「人間なんだ!!」
何も言えなかった。そこには、大きな牙を持つ野獣が居るだけと思う。だが、声は人間──
そうか、彼の声なんだ。
そう思う。
そう思うと、何かとても冷たく感じた。
洞穴の中に、小さな明かりが差し込む。朝日だ。
少し離れた場所に、濃い緑色の丸い物が見えた。幾つあるのだろうか、殆どが割れている。
今昇ったばかりの朝日がとても暖かい。
でも、体は冷たいし、手足は動かない。
「伏姫、貴女は私だけを愛した」
ぎしりと鳴る音が、洞穴の中を木霊する。
音の正確な位置は、追えない。
「<人間>である私を愛するなど、許していませんよ」
それは、とても冷たい声だった。
彼が来てから、五ヶ月が過ぎた。
彼女が居なくなってから、三ヶ月が過ぎた。
<家>はとても静かで、断りを誰も話さなくなった。
浮気をしてはいけない。転生するなら、その後世まで浮気はしてはいけない。
いや、正確に言えば、特定の<場所>には、時代に作用する力があるからだ。
だから、神社があり、御神木があり、何よりも博麗神社があるのだろう──
※伏姫ってなーに?
僕も知りません(ぇ
隣国と対立した所のお姫様で、
愛犬<八房>と一緒に籠穴(こもりあな)に篭もったらしぃ(*ω)
情事ではなく、オーラで八房の子供を身篭って、アァンとなったらしぃ(><。